QLC(クォーターライフクライシス)からの脱却のために色々考えたことを書いてみる。

雑記

こんばんは、ヨヘです。

三十路まで残り数年。この頃感じている哀愁の正体は、昨今よく耳にするクォーターライフクライシスなのではないか?今前向きに生きられるかどうかが脱却と予後に関わっているのではないか?と気づいて、空元気で生きている所存です。

つまりまだ脱却できていません。

クォーターライフクライシスとは?

GoogleのGemini(以下ジェミニ先生)曰く、

クォーターライフクライシス(QLC)とは、20代後半から30代半ばの時期に、人生や生き方に対して不安や焦り、憂鬱感などを抱えることです。

だそうです。

私のセンチでウンチな哀愁がこんな俗っぽい言葉で説明ついてたまるか。というのが正直な感想ではありますが、実際に私が無力感を覚える時は大抵、この歳から何かを挽回するためには凄まじいエネルギーが必要で、日々全力で生きている自分にそんな気力は残っていない。と思ったときなのです。

周りの人間が結婚、出産、昇進といったライフイベントを乗り越えて、自分の人生から子の人生を生きるようになる。何か一つの道を極めるべく生きている人間はそろそろ結果を出して、より高い欲求を満たしていくライフステージに差し掛かっている。

そんな中で自分だけ取り残されていっているような感覚こそQLC(クォーターライフクライシス)なのです。

月並みではありますが、QLCが人生の中で殊更強調すべき転換点というわけでもなくて、高校・大学受験や学生時代の恋愛や交友関係など悩むべき時期はそれぞれ違うので個人的にはQLCを感じている今の気持ちを有意義に活用してやろう。と思ったわけです。

QLCの一般的な解決策

ジェミニ先生がいうには

【対策】

  • 自分らしさを見つめ直す
  • 他人と比べない
  • 気分転換をする
  • 「たられば」に後悔のない人生を歩む
  • ロールモデルを見つける
  • 過去の自分の価値観や意思決定を客観的に振り返る
  • 信頼できる先輩や友人と対話しながら考えを整理する
  • キャリアアドバイザーなどを活用する

とのことですが、まぁこれもありふれた答えですよね。

一言にまとめると自分軸の人生を歩め。と言っているわけですが、自分軸なんてものは案外脆いのかなと私は思ってます。相互に影響して軸は定まるものなのでたとえ自分軸が強固であっても多数派の総意の前では簡単に捻じ曲げられてしまうのではないかなと思います。

私が自分らしさを100%発揮できていた時期といえば小学6年生くらいが記憶の最後で、歳を重ねるにつれて、なんだかんだ自分の好きや得意も実際のところ、社会との関係性において強化される場面が増えてきます。30代も近くなると自分らしくいることに対しても「このままで良いのか」という疑問がついてきて、社会性フィルターによって濾過されて肝心なエキスの部分は抜けてしまうのが実際のところですよね。

恥の概念を獲得してしまったがために思うように動けないのです。

出会いを増やすことのメリット

結局、QLCの根源は対人関係をベースにした不安や劣等感などから起きる羨望が発端であることが多く、たとえば結婚や出産や昇進などの大きなライフイベントにフォーカスされることが多いでしょう。

そういったイベントを重視するがあまりそういう願望を達成した人ばかりが目に留まってしまって「婚期を逃した」とか「自分は今後もこの会社でダラダラと窓際を続けるんだ」と卑屈になってしまいますよね。ありふれたフレーズではありますが、少し視野を広げてみると生き方の多様性がわかってくるのです。

「俺は〇〇をしていれば幸せなんだ」

高齢の独身、あるいは低収入にも関わらず幸福を感じている人は趣味の界隈に属すと少なからずいます。それを聞くと「いやいや、負け惜しみでしょう」と言いたくなる気持ちもわからなくもないですが、他人の幸福を否定する権利は私たちにはありません。そんなことを言ってしまえば、結婚して子どもも生まれて、会社で大出世を果たしても「あなたは幸せですか?」と聞かれて「No」と答える人はいなくともその境遇の全員が「Yes」と答えるとも限りませんし、結局は水掛け論的なところに行き着いてしまいますよね。それくらい幸福の定義は曖昧なものなのではないかと思ってます。

人との出会いを増やして、自分の中にある幸福を再定義するために幸せな人をたくさん見つけて、それぞれの幸福の形や折り合いの付け方を観察していくことで、自分にとっての幸せも誰かから見ればそこそこで微妙でもあることを受け入れつつ、模索に組み込んでいくことが重要ではないのかと思います。

何者であるかは他者が決めること

「何者かになる」というフレーズが近年になって流行している要因の一つはSNSです。何かに特化している人間は界隈の中心人物としてフォロワーが多くついて、〇〇の人という箔がつき何者かになります。「何者かになる」の正体は承認欲求の一つです。

この何者かになりたい欲求はマズローの自己実現欲求の5段階のうち上から2段階目を指しています。一番上は自己実現欲求で内的要因が源であるのに対して、2段階目は尊厳欲求であり対社会的な位置付けで、他者との関わりのうちに尊厳を満たされようとする欲求を指しているので一人で満たすことはできないのです。

何者かになるために何万人もの閲覧者やフォロワーに恵まれなければならないのか?批判されるリスクとトレードオフにしてまで得なければならないのか?どこまでプライドを捨てて支持者を得るのか?SNSをベースにして考えるとキリがありません。

医者になろうが弁護士になろうが経営者になろうが、何者であるかは自分で見られたいように見られるとは限りません。何者であるかどうかは将来の形のみに依存せず、今この瞬間の自分も「自分の人生という作品を演ずるにはこの人間(自分)が適任である」くらいの自己肯定感をもってしか自分で証明することはできないのです。

昔の人間はどう自己実現欲求を満たしたか?

一昔前の人間はどう考えていたのか?というと、身分制が強固な封建社会において出世もバズりも何も身分制が壁であった時代にはどうしようもありません。日本で言うと明治維新後は身分制が撤廃されて文芸も活発になり、戦後は言論の自由も保障され、より多くの人たちに認めてもらうことは容易になりました。しかし、私の周りの年長者に聞いてみても「何者かになりたい」という思いに対する意見は得られませんでした。

一個前の見出しとは真逆ですが、逆に社会の視野を狭めてみると答えに近づいていきます。私たちが普段見ているのはSNSを通した有名人や主張が激しい人たちによる煌びやかな世界。次に同級生や会社の同期による日常的な出来事の共有。次に家族。とフォーカスダウンしていくと、家族内での役割分担や位置付けがあり、独身で一人暮らしであれば、配偶者のセルが空白になっていることに気づきます。親は親であり、何者かと言われたら、私の父であり母であるわけです。

結局ここに答えがあるような気がしていまして、現代の若者による何者かになりたい欲求は成功と失敗の間に「誰かの親になる」というのは一つあるのではないでしょうか。

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