幕末の歴史には多くの外国人が登場するようになります。ペリー、ハリス、ラクスマン、オールコック、パークス、ロッシュ…と数えきれない外国人が来日した時代です。アーネスト・サトウもその一人でした。サトウの名は日本人の耳に馴染みやすく、非常に親しみを抱かせました。
“一番”尊敬する人物は誰かと聞かれると答えに困るのが歴史好きですが「非常に興味深い」人物であれば、私は間違いなくその中に『アーネスト・サトウ』を挙げるでしょう。通訳士として来日し、血生臭い事件の数々を経て明治維新を見届け帰国しましたが、数度の来日の間に日本人の内妻(武田兼)との間に子どもを設け、最期は日本で迎えることを望むほどの日本好きだったのです。

アーネストサトウと日本の出会い
日本人との縁を感じさせるサトウ姓ですが実は全く日本には関係なく、スウェーデン系の稀少姓です。サトウはイギリス・ロンドンの北東部出身で父がスウェーデン人で母がイギリス人でした。成績優秀で16歳にしてUCLに進学した彼の人生に日本が登場したのは16歳か17歳くらいの出来事だったはずです。彼の兄が大学の図書館で借りてきた『エルギン卿の中国・日本使節記』(ローレンス・オリファント)を手に取ったのが、彼が日本へ興味を抱くきっかけとなります。
18世紀後半は天津条約や日英修好通商条約が交わされ、イギリス領であったインドではシパーヒーの乱(インド大反乱)が起きたことがニュースになるなどイギリス国民の東方への関心が高まっていた時代でもあり、政府主導で通訳生の募集が行われていました。大学構内に張り出されていた告知をみた彼は、使節記に描かれていた色鮮やかな極東の世界に足を踏み入れる機会としてとらえ、見事に選抜され赴任国に日本を選んだのです。
その頃日本では攘夷思想が熱をあげ、数え切れぬほどの外国人の殺傷事件が相次ぎます。イギリス公使館の置かれていた東京高輪の東禅寺ではローレンスオリファントが襲撃される東禅寺事件が発生し、サトウの来日した年にはあの生麦事件が起きています。薩摩藩主島津茂久の父久光の大名行列を横切ったイギリス人が大変不敬だとして、同藩士の奈良原喜左衛門が斬りかかったのです。この時の外交問題は徳川幕府を大いに悩ませましたが、日本に赴任する外国人たちの恐怖を煽り、生麦事件の賠償問題がのちのち薩英戦争と発展するほどの極めて深刻な事態になっていたのです。
私のアーネスト・サトウとの出会い
私が初めてサトウに出会ったのは日光・中禅寺湖の畔にある旧英国大使館別邸。

和の意匠を感じるエクステリアですが、室内は至って英国風でアーネストサトウや奥日光についてのパネルなどが展示されています。
二階には喫茶店があり、ティーとスコーンを味わうことができます。以前訪れた際は喫茶店には寄らなかったので写真はありません。よかったら公式サイトを覗いてみてください。
旧別邸がなぜ中禅寺湖の畔にあるのか。そこにサトウが関わっていたのです。
私の読んだ『一外交官のみた明治維新』ではサトウは明治維新を見届けて日本を離れるまでが描かれていますが、内妻の武田兼(かね)とその間に設けた子どもが日本にいたこともあり、何度か来日する中で中禅寺湖畔に別荘を建てたのです。
建物の外には男体山が見えます。この景色を見てサトウはイタリアのコモ湖のような風景に親しみを覚えたとも言われています。各国の外交官も便乗して、周囲にはイタリア大使館別邸、デンマーク、ベルギー、フランス…といくつもの大使館別邸が建っているのです。避暑地の役割を果たしていたので「夏には外務省が中禅寺湖に移る」とも言われていました。
サトウは母国のイギリスで最期を迎えましたが、家族のいる日本で最期を迎えることを望んだと言われています。
英国の国益の第一に日本のことを想ったサトウ
あくまで彼は英国人であり、英国の国益のために行動しました。日本の鮮やかな風景や美しい女性への感動をたびたび語っていますが、日記の中ではあくまでも女王陛下(ヴィクトリア女王)への忠誠を誓い、薩英戦争、下関戦争では軍艦に乗り込んでいますし、本土滞在中も攘夷主義者からの護身のために銃を携行していた記述があります。
郷土や自分の所属するコミュニティへの忠誠と他国の国の文化に興味を持ち接することの分別がサトウの行動・言動から見て取れるのではないでしょうか。自分の身を護らなければそこの国の文化を体験することもできない、自分を所属する組織に尽くすことを第一にしながら日本人のためにも行動してくれたのがサトウという英国人なのでした。
好きな国がある、というとそこの国の文化に染まりたくなってしまう気持ちもありますが、彼の姿勢を学ぶことでただの他国人ごっこを超えた文化理解を深めていけるのではないかと思っています。
以上、明治期の外国人紹介第二弾でした!
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